Cの隠蔽

昨夜の出勤時、ポケットに手を入れてみると定期券が無い事に気付いてしまった。都合の悪い事に電車の時刻も迫っていた為ろくすっぽ探すもできる筈無く、私は片道210円という大金を払って新宿までの切符を買う羽目になってしまう。
今朝、帰宅するやいなや私はでんと寝転がっている同居人に尋ねてみた。「おい、オマエ。聞いているのかオマエ。先日より俺の定期券が見当たらないのだが何処へやったか知らぬか」女は寝起きを襲われた所以か、反駁混じりでこれ見よがしに怪訝そうな表情をしながら布団を全身に巻きつけむっくりとその体を起こした。「俺の記憶によると確か君は昨日の日中、この部屋を掃除していたと思うのだが その際に見はしなかったかね?青い四角い定期券を。吉祥寺 新宿間と書いてあるはずなんだが」女は首を横に降るだけで何も答えないばかりかヒントの一つも出しやしない。解決法を知らないまでも糸口くらいは共に見つけ出そうと尽力するのが友達というものではないのか、それとも友情なんて眠気よりも煎餅布団よりも軽いものだったのか。 「おいおい、このままじゃ俺は毎日職場のレジから420円ずつ小銭をくすねなくてはならないぜ」少しおどけた口調でジョーク混じりの捜索に思わず俯いて笑い出す女。それを見てはっ、と或る考えが私の脳を支配した。「まさかこの女、私のギャグが面白くて笑っているのではなくて、定期一つで見るも滑稽に狼狽する私の姿を嘲笑っているのではあるまいか。きっとそうだ、そうに違いない。…はっ!まさかその肝心要の定期券自体この女がどこかに隠してしまったのではないか…?そして今後の通勤生活に役立てるつもりではないか!?毎日浮いた420円でハーゲンダッツのアイスを食べるとかの贅沢をしているのではあるまいか? 疑心暗鬼に輪をかけるかのように女が突如羽織りだしたパーカーにはこう書いてあった。「THE WHO」 フー?この女フーの来日に行ったのか?いやさそんな話は微塵も伺ってはいない。実際のところどうなんだと軽い口調で問いただしてみる、答えはNO。NO JESUS!行ったこともないバンドの洋服に身を包まれた彼女、それはさも彼女の人生そのものが虚構塗れであったことを物語っているのではあるまいか。そして当の本人も気付かないところで他人を騙しいれているのではあるまいか。そもそもTHE WHOを纏う前から妙ちくりんな格好をしていた。寒い寒いとうわごとのように呟きながらもエアコンをつけようとしないのは何故だ。だのに首にはしっかりとマフラーさえ巻かれているのは何故さ。しかもそのマフラーときたら黄緑色で網の目状で…アレだ!あのお菓子に似ている、グリ−ンスナックにそっくりなんだ。スナックなのかマフラーなのかよくわからない代物ではあるがどちらにしたって室内で首に巻く格好ではないという点では明々白々にして同類。存在が破綻している、というか妖怪じみている。駄目だ、とめどのない猜疑心を殺す事はもう不可能な気がしてきた、犯人はこの女に違いない、怜悧で狡猾な愉快犯Cの存在が浮き彫りになった。Cは尚薄気味の悪い笑みを称えている…思えばここ数日、実についていない毎日であった。借りてきたビデオは見ることもないまま延滞料金をとられて返却しなければならなかったし楽しみにしていたテレビ番組の録画をも忘れてしまった。どうもこうした「うっかり」の類による凡ミスを連発している。おかしいのだよ。以前の私ならそんな事は無かった、一度の食事で食った米粒の数までも記憶しているほどの明晰さを誇ってもいい位の記憶力だったはずなんだ。はっ!もしやこの女…夜な夜な私が眠った後に何かしらのあやしい、中近東辺りの国で仕入れた何かを使用して私の大切な記憶をこそげ取っているのではあるまいか。さもありなん。こうして日がな「うっかり」を連発させることによって生に対する自信を喪失させて速やかな自殺に追い込もうとしているのではないか。そう考えれば辻褄が合うではないか、何しろ彼女はこの東京に住む社を持たぬが故、仕方無しに現在我が屋に間借りをしているという居候なのである。家主である私が死亡、若しくは失踪などの怪死を遂げれば漏れなくこの部屋はところてん式に彼女のお住まいとなるのではないか。点が線になる恐怖!なんと遠大なる太陽政策。急に怖くなってきた私は今後一切彼女の作った手料理を口にするのは辞めようと今誓った。そうして自分が眠るのは彼女が仕事に出ている間に絶対しようとこれも強く心に誓った。あびん!思い出したくもないことを思い出してしまった。そう言えば私が常日頃より愛履しているスニーカーの甲にもピートタウンゼントの顔が不気味な無名のデザイナーによって描かれていたのではなかったか。同じ穴のなんとやら、か?否!私は絶対的な被害者なはずだ。私は悪くない。悪くない。そう言い聞かせ忍び寄るCの影に怯えながら定期を探しつづける私、見つかるはずもない、見つかるはずも。少し落ち着こう…丁度ここにあるFBというビスケでも食べて……はっ!このFB、私が買ったものでは無い、明らかに。何たる罠、丁度こうして私の左手が伸びる範疇にそれとなく配置しておくだなんて。美味い、悲しいかな美味い。悲しいくらいに美味い。というか尋常じゃない美味さだ、これには何か特殊な調味料が混入されているとしか考えがたいものがある。だとすれば誰が、一体何のために…?…ぐひぃ!自明の理!点が線になっていく恐怖をおずおずと感じずにはいられない。これは…紛れも無くこのFBは彼女が仕込んだものだ、それが理由に先程から彼女は一切手をつけておらんではないか、FB。殺人ビスケット。冷蔵庫から引っ張り出してきた何か別のお菓子を頬張っているではないか。やられた…二本も三本もとられてしまった、二本分も三本分も死に歩み寄ってしまった。項垂れて頭を垂れん。垂れた私の視界に何か不吉な、魔的なフォントの洋文字が見えるのは気のせいだろうか。幸か不幸か私は博識なもので英語であるとか独語であるとか、一頻りの外国語は容易く読めてしまう。その私が見間違うはずはないだろう、HAGGEN-DAZSの文字を。ぎゃあ、何処までも衝撃的。冗談半分で書き始めた手記であるのに事実は小説より奇なりを地でいくような私と彼女、いやさC。これはあながち嘘でもない。今宵誰もが寝静まった後、私はCの財布をこっそりと開いてそこにあるはずの吉祥寺 新宿間定期券を奪還することを試みようと思う。